英語で紹介された広島・長崎原爆文献

-日本人原著の本に関して-

はじめに

   広島と長崎に原爆が投下されて58年になる。高齢化した被爆者が亡くなっていくにつれ、被爆体験の消滅が懸念される今、体験の継承を世界に伝えようとする努力が続いている。それは広島と長崎の原爆文献を英語で紹介しようという試みである。    第2部では、広島と長崎に投下された原爆について書かれた文献のうち、日本人が原著の英語で読める本を紹介する。年度別の出版件数を集計し、英文原爆文献の出版活動を通して、広島と長崎の世界化がどう進んでいったかを明らかにすることを目的とする。また、出版された本を世界の民衆に届けること、英語以外の多言語による原爆文献の出版を進めることを今後の課題とした。
   第1部では446冊の英語で読める本を紹介した。そのうち、日本人原著の英語で読める本は283冊あった。

I. ヒロシマ・ナガサキの世界化に向けて

   広島と長崎の被爆者や市民は被爆の実相を次のような方法で海外に知らせてきた。
      ① 被爆者が海外に行き、自らの体験を語った。
      ② 原水爆禁止、核廃絶の署名運動をして国連機関、各国首脳などに送付した。
      ③ 集会などの決議文を英訳し、海外に送付した。
      ④ 海外で、原爆展、写真展を開催した。
      ⑤ 原爆文献を英訳し、海外に広めた。
   本稿では、「⑤原爆文献を英訳し、海外に広める活動」を取り上げ、英文原爆文献の出版活動が戦後58年間に果たした役割を考える。
   英文による原爆文献出版の年代順の動向を知るために、戦後の58年を、10年ごとに6つの時期に区分した。第1期は1945年から1954年までの主として占領下時代を中心とする時期、第2期は1955年から1964年までの日本国内で原水爆禁止運動の拡がった時期、第3期は、1965年から1974年の原水爆禁止運動が分裂した後の時期、第4期は、1975年から1984年の被爆体験を世界で共有する動きのあった時期、第5期は、1985年から1994年の世界の核被害との連携の時期、第6期は1995年から2003年現在までの被爆50年以降と特徴付けることができる。 
   平和運動家であった故バーバラ・レイノルズ1) は、1980年の『季刊 長崎の証言‘80秋号』で「英語から日本語に翻訳されている本が仮に350冊あるとすれば、日本語から英語に訳されている本は1冊。350対1の割合です。しかもその本も小説などに集中している」と述べ、「もっと英語で読める原爆文献の発刊を」と呼びかけている。1980年当時、日本人原著で英語に訳されている本は、72冊(文学5、児童文学2、体験記・回想記23、写真集・画集13、研究・報道29)しか確認できなかった。内訳は、レイノルズの意見とは異なり、出版件数が一番多いのは研究・報道であった。次は体験記・回想記である。
   しかし、レイノルズの「文学が多い」という一般的な印象は、本の出版者、流通方法に起因している。体験記のほとんどは私家版か、団体による出版で、書店で見かけることは少ない。一般書店に流通ルートを持っているかどうかということを基準にして2つの範疇に分類すると、1980年当時、文学と児童文学は出版件数の65%が書店に流通ルートを持つ出版者によるものであったが、体験記の場合、出版件数の80.5%はそうしたルートを通らない出版である。2) 同様に、研究の出版件数のうち出版社によるものは15.2%しかなく、大半は研究機関、学校、市など、公的機関が出している。出版件数ではなく、出版部数で言えば文学や児童文学は商業出版で多部数印刷され、レイノルズの「文学が多い」という印象は、書店でよく見かけるという意味もあるだろう。上記の出版件数比率は1980年当時のものであるが、この比率の傾向は2003年現在でもほぼ変わっていない。第1部で紹介した文献リスト作成の目的の一つは、このように書店で見つけにくい文献資料を紹介することだった。
   バーバラ・レイノルズの訴えから23年が経過した。英語で読める原爆文献はどれだけ増えただろうか。今回の増補改訂で、283冊の日本人原著の本を確認した。これらの本を10年ごとの年代順に分類し、5つのジャンルに分けて比較したのが図1である。明らかに出版件数は年を追って増えていることがわかる。とりわけ、第4期(1975~1984年)には、英語で読める体験記が大幅に増えている。1985年の被爆40年以降、第5期(1985~1994)に入っても出版件数は増え続けている。この時期に、文学と研究・報道は第4期に比べ大幅に増えている(8冊から15冊、23冊から、35冊)。体験記も着実に増えている。さらに被爆50年以降も原爆文献の出版は続き、広島と長崎の役割は終わらないことをこれらの数字は示している。3)

図1 日本人原著の英文原爆文献出版件数推移

   このグラフには、日本人が書いて英語に訳された本と、外国人または日本人が編集・出版した英文の出版物の中に、日本人原著の原爆に関する文章や論文が紹介されているものが入っている。また、日本の研究機関、団体、市などが主催した国際会議やシンポジウムの英文報告書も加えた。出版件数は、再版された回数、複数の出版社から出ている回数も分かる限り入れた。グラフが示しているように、日本人原著の英語で読める本が時代の経過と共に増加していったプロセスは、ヒロシマとナガサキが世界化していく過程と見ることができる。何が日本人を英文原爆文献の出版に駆り立てたのか。次の項では、日本人による英文原爆文献の出版活動を各時期に分けて紹介したい。

II.ヒロシマとナガサキの世界化の進展

第1期 (1945年~1954年)

図2 日本人原著の英文原爆文献出版件数(第1期)

   この時期、広島と長崎の被爆の実相は、主として外国人が伝えた。4) 日本人、特に被爆者は、原爆後障害に苦しみながら、敗戦直後の厳しい生活環境の中で生きていた。5) 自分の体験をまとめること、ましてや英語で体験記を出版することなど思いもよらなかっただろう。 しかし、この時期に4冊の日本人原著の本がある。一つは、中島健蔵編集の Living Hiroshima: Scenes of A-bomb Explosion with 378 Photographs Including Scenery of Inland Sea (1948)で、広島観光協会から出ている。ジョン・ハーシーのHiroshima (1946)で紹介された6人の被爆者の話に加え、復興したヒロシマの様子を伝える写真を紹介している。 体験記は、松本祐子のMy Mother Died in Hiroshima (1949)がある。6) 初版は英語だけで出版され、1985年に広島平和文化センターから日英対訳で再版された。もう一つは、永井隆のWe of Nagasaki (1951) である。長崎の医師であった永井隆は長崎への原爆投下直後から被爆者の治療活動に携わった。妻は被爆死した。自らも原爆後障害に苦しみ、二人の子供を残して死亡した。この本で、永井は、我が子の体験記を含めて8編の体験記を紹介している。日本語で書かれた原著は英語とドイツ語に訳され、海外で大きな反響を呼んだ。
   研究の分野では、草野信夫医師による英文報告書Atomic Bomb Injuries (1953)がある。この本は被爆50年を機に改訂新版として再版されている。草野は、当時、東京大学伝染病研究所の助手であった。赤痢の症状に似た患者が次々と死亡しているので調査をしてほしいという広島県衛生部の依頼で被爆直後の8月末に広島に入り、原爆犠牲者の解剖にあたった。7) 1953年のウイーン国際医師会議で原爆の人体被害の実態を伝えた。被爆直後から治療と研究に当たった医師たちは以後、研究の蓄積についての情報交換を海外から要請されることになる。    日米講和条約が調印された翌年の1952年の8月6日には、『朝日グラフ』に公開された広島・長崎の写真で初めて被爆の実態を知った日本人も多かった。朝鮮戦争が既に始まっており、米国、英国、旧ソ連の核実験も既に始まっていた。学生や労働者を中心に平和集会で原水爆禁止の訴えがあったが8)、大衆を巻き込んだ大きな運動に盛り上がるのは次の第2期である。

2. 第2期(1955年~1964年)

図3 日本人原著の英文原爆文献出版件数(第2期)

   ビキニ海域で日本のマグロ漁船、第五福竜丸が米国の核実験による“死の灰”を浴びた9) ことをきっかけに、大衆的な原水爆禁止運動が日本国内で盛り上がった。1955年に開かれた第1回原水爆禁止世界大会で、今後の国際連帯が課題とされた。10) これに応えて、1961年に被爆者や医師を含む派遣団がインド、セイロン、インドネシア などアジアの国々と欧州を訪問した。広島の医師が海外で証言したのはこれが初めてだった。派遣団に参加した福原要一は帰国後、投下の事実は知られていても、原爆後障害についてはあまり知られておらず、今後海外に後障害の実相を伝えるのが急務であると述べている。11) Physical and Medical Effects of the Atomic Bomb in Hiroshima (1958) は物理学、化学、医学関係20人の日本人研究者グループによる117㌻の報告書である。本書は広島に投下された原爆の物理的、病理学的影響と、臨床研究の3章で構成され、原爆被害に関して科学のいろいろな分野から検証した総合的な報告書がこれまでになかったことを指摘している。
   原水禁運動の盛り上がり、海外への被爆者派遣の動きにもかかわらず、日本人が書いた被爆の実相を英語で伝える出版物はまだ十分とはいえない。しかし、この時期、原爆文献の古典として国内外で長く読み継がれることになる2つの体験記が英語に訳された。一つは蜂谷道彦のHiroshima Diary (1955)である。著者は当時広島逓信病院の医師で、原爆投下直後から被爆者を救援する医療活動について克明に日記に残している。もう一つは、長田新のChildren of the A-bomb (1959)である。広島大学で教育学の教授だった長田は編者として広島の子供による被爆体験記を105編紹介した。    1955年に始まった原水爆禁止世界大会は、旧ソ連の核実験の評価、部分核実験停止条約に対する意見の対立で1963年に分裂した。大衆運動から始まった原水禁運動は以後、模索の時期に入る。

3. 第3期(1965年~1974年)

図4 日本人原著の英文原爆文献出版件数(第3期)

   1963年に原水爆禁止運動が分裂し、全国的に盛り上がった平和運動は混迷状態に陥った。政党主導の平和運動への不信感から運動を離れる人もあったが、地道な被爆者救援運動への移行の動きもあった。12) また、広島と長崎の原爆被害に関する包括的な報告書をまとめる作業も始まった。
   この動きの中、被爆の実相に関する英文報告書が出版された。Actual Facts of the A-bomb Disaster (1964)である。バーバラ・レイノルズが提唱した広島・長崎平和巡礼団が海外に持参するために英文で35㌻の小冊子にまとめた。被爆地の声を世界に伝えようと結成された巡礼団は被爆者や平和運動家、原爆医療関係者をはじめとする40人のメンバーで構成され、75日間の米国と欧州への旅であった。13)    この時期には研究分野の本の出版が第2期の5冊から12冊に増えたのが特徴である。1969年には広島の戦後をまとめた英文の本が出た。今堀誠二、小谷鶴次、庄野直美著のHiroshima: Steps Toward Peace (1969)である。被爆者運動、反核運動、社会活動などについて広島在住の研究者がまとめた英文の広島戦後史はおそらくこの本が初めてであろう。バーバラ・レイノルズが翻訳メンバーに加わっている。
   医師による原爆症関係の論文発表もこの時期に増えてきた。中でも異色な発刊は、465㌻にわたる医学論文集Copies of Translated Japanese Reports Regarding Medical Effects of the Atomic Bombs at Hiroshima and Nagasaki (1965)である。日本の医師、研究者が1945年12月までの段階で、原爆症の症状について明らかにした医学論文が20年後に初めて米国政府によって機密文書扱いを解かれ、出版に至った。
被爆25周年には広島県から被爆者の現況や広島市の様子を報告した英文文献25th Anniversary of A-Bomb Day August, 1970 が出た。    ベトナム戦争をはじめ、きびしい国際関係の状況下にあったこの時期ではあったが、核戦争の脅威を知らせるに十分な英文文献が、日本人の手によって出されたとはいえない。ヒロシマとナガサキの世界化は第4期になって大きな動きを見せる。

4. 第4期(1975年~1984年)

図5 日本人原著の英文原爆文献出版件数(第4期)

   1977年7月21日から8月9日まで、東京、広島、長崎でNGO(非政府組織)被爆問題シンポジウムが開催された。アーサー・ブース議長はシンポジウムの宣言文で「私たちはみんなヒロシマ・ナガサキの生きのこりです。私たちもまた、ヒバクシャです」14) と述べた。この発言は、これまでの原水爆禁止運動が新しい段階に入ったことを象徴している。シンポジウムには海外22カ国69人の専門家が参加した。被爆者の実態調査を基にした報告が採択され、国連にも提出された。被爆の実相を世界に広めるのに大きな役割を果たした。15)
   第2期は「唯一の被爆国」という表現が日本国民をひとつにし、全国に原水爆禁止のうねりが広がった時期であった。16) それに続く70年代は世界が人類生存のために広島と長崎の体験を共有する時期に入ったといえる。NGO被爆問題シンポジウムの英文報告書A Call from Hibakusha of Hiroshima and Nagasaki (1978) は被爆者の実情を物理学、医学、社会学、平和教育など多方面から報告している。また、このシンポジウムに先立って、長崎独自で英文報告書Report on the Damage and After-Effects of the Atomic Bombing in Nagasaki, 1945 (1978)を出している。
   このシンポジウムは、英語の説明文を付けた写真集を出版する市民運動のきっかけともなった。シンポジウムと同時に開催された小さな被爆写真展がそのはじまりだった。英語説明文付き写真集HIROSHIMA-NAGASAKI (1978)を出版しようという声が上がり、出版委員会ができた。市民が英文被爆写真集の起案・編集・出版・配布までをすべて自分たちの手で行った事例である。広島と長崎の被爆の実相を伝える340㌻にわたるこの写真集は数千人のボランティア、数百の団体の協力で出来上がった。また、海外からの支援も大きかった事が写真集のあとがきに記されている。 1981年発行の小冊子Days to Rememberは写真集「広島-長崎」出版委員会の活動を記録している。1978年の発刊から3年間で15,000部の写真集が海外に送られ、海外から2,000通の支援の手紙を受け取っている。1978年にニューヨークの国連本部で開催された国連群食特別総会の参加者や米国上院議員全員に配布された。150点の写真は国連本部のハマーショルド・プラザに展示された。写真展はその後、旧ソ連、フランス、ブルガリア、スウェーデン、フィンランド、ポ-ランド、東西ドイツ、デンマーク、北米、南米の国々など10数ヵ国で開催され、総計10万人以上の人々が写真を見た。17)
   広島と長崎の生き残りの意味が、欧州の「ユーロシマ」への懸念と重なったのも出版活動が盛り上がった要因の一つである。冷戦によって欧州が限定核戦争の舞台になるのではないかと心配された時期に、被爆者の目はさらに海外に向けられた。 1978年の国連軍縮特別総会に1800万人の核廃絶署名とともに被爆者が総勢500人の日本人代表団に加わった。To the United Nations 1976 は、それに先駆けて出版された。この被爆の実相を伝える文書は、国連事務総長に提出された。    被爆30年にあたる1975年に、これまでの懸案だった日本人の手による包括的な「原爆災害報告書」が広島市長崎市原爆災害誌編集委員会によって岩波書店から出版された。日本語でまとめられた本書は、6年後の1981年に英語版が出版された。広島と長崎に投下された原爆の物理的破壊、身体の障害のほか、社会生活に与えた影響、核廃絶への道も加えた4章で構成されている。原爆に関する科学的な論文の集大成である。一般向けには要約版のThe Impact of the A-bomb (1985) が読みやすい。この要約版には新たな資料も含まれている。 
   また、広島と長崎の医師が、南太平洋のマーシャル諸島の核実験場周辺住民、韓国在住被爆者らからの要請を受けて調査活動をしたのもこの時期である。日本国外にも被爆者がいることを認識し始めたのは1964年、米国統治下の沖縄に「原子爆弾被害者連盟」が結成されたころからである。18) 沖縄の被爆者は専門医の沖縄派遣を要請した。その翌年の1965年に韓国に派遣された被爆者実態派遣団は「韓国にヒバクシャが5000人いる」と報告した。19) 1973年には在米被爆者救援運動のリーダー、トーマス野口が在米被爆者の実情を訴えた。American Atomic Bomb Survivors: A Plea for Medical Assistance (1978) は在米被爆者の実情を報告している。南米で被爆者の存在が明らかになったのは、それからさらに10年も経過した1980年代に入ってからだった。広島で被爆した東南アジアからの留学生43人を調査、面接した記録が江上芳郎による “Foreign Students from South East Asia and the Atomic Bombing of Hiroshima”(1993)である。これら在外被爆者の実態についてまとめた総合的な英語で読める本はまだない。20) 
   韓国人被爆者に関しては、第4期に核禁会議発行のThe Atomic Bomb Survivors in Korea (1978)とPak, Su-Num編集のThe Other Hiroshima (1982) が出た。これらの本は多くの韓国・朝鮮人被爆者が日本国内外に存在する歴史的な理由を海外に知らせる役割を果たした。
   この時期に、広島と長崎に関する英語で読める本は、急激に増えた(第3期の23冊から75冊に)。この10年間は、年を追うごとに出版件数が増えている。なかでも体験記の増加が目立っている(第3期の6冊から26冊に)。原爆投下による放射線被爆者が今なお後障害に苦しんでいる実態を世界に知らせる英文の本が飛躍的に増えたのも第4期だったが、広島と長崎の被爆者が「核被害者」として海外の被曝者との新たな連帯を進めるのは次の第5期である。

5. 第5期(1985年~1994年)

図6 日本人原著の英文原爆文献出版件数(第5期)

   1986年のチェルノブイリ原発事故は、広島と長崎が世界の核被害を考える上で重要な意味を持つ出来事だった。以後、放射能被害者を長年にわたり治療研究してきた医師たちへ現地からの要請が相次いだ。チェルノブイリ原発事故の後、10年間にわたり現地調査をしてきた広島の医師による報告書The Chernobyl Accident: Thyroid Abnormalities in Children, Congenital Abnormalities and Other Radiation Related Information – The First Ten Years – が、1996年に出版されている。前書きで編者の武市宣雄は、放射線被曝者の治療にあたっているチェルノブイリの医師が、関連の文献を緊急に必要としていると記し、広島と長崎の医師の果たす役割を述べている。また、佐藤幸男は、CIS(旧ソ連邦共和国)への12回の訪問で、チェルノブイリの悲劇は地元だけではなく、全人類の悲劇であるという現地の声を聞いた。これこそ広島が被爆について世界に訴えてきたことであると述べている。また、次世代が同じ体験をしないよう国際的連帯を進めてこそ、今日の犠牲者は報われると結論している。
   広島と長崎の医師への招請が続く中、1991年に広島に放射線被曝者医療国際協力推進協議会が設立された。海外からの医師研修受け入れ、シンポジウムの開催などが主な目的である。外国語で読める報告書は419㌻の英語版 Effects of A-Bomb Radiation on the Human Body (1995)のほかに、ロシア語版も出ている。37㌻の英文ダイジェスト版報告書A-Bomb Radiation Effects Digest (1993) もある。
   このころから、広島と長崎の被爆者に、核実験場、ウラニウム採掘場、原発事故で放射線被害に遭った被曝者を加え、片仮名でヒバクシャ21) という用語がマスコミで使われるようになった。広島で原爆報道をしてきた中国新聞社の記者による世界の核被害に関する報告書The Exposure: Victims of Radiation Speak Out(1992)は、この時期に出版された。この報告書は広島と長崎以外にも世界各地で放射線被害に苦しんでいる人々の存在を知らせた。この動きはさらに、核被害者の治療に関する情報交換を活発にし、長崎では1993年と1994年に3つのシンポジウムが開催された。 Nagasaki Symposium on Chernobyl: Update and Future(1994)がその報告書である。  
   広島と長崎の被爆者を世界の「核被害者」と位置つける動きの中で、広島と長崎は1995年に被爆50年を迎えた。半世紀の間、平和活動を続けてきた人たち、被爆者、広島をテーマに執筆活動をしてきた人たちは、50年の機会に記録を残そうと出版活動に取り組んだ。
   今回新たに付け加えた50年以降の英文原爆文献出版件数は、広島と長崎はまだ、核廃絶の訴えをやめるわけにはいかないという被爆者や関係者の声を反映している。

第6期(1995~2003年現在)

図7 日本人原著の英文原爆文献出版件数(第6期)

   原爆文献出版史のなかで、著者が日本人、外国人にかかわらず、英語で読むことの出来る本の出版件数が一番多いのが被爆50年の1995年である。22) 日本人原著の英文文献に限定すると、1995年以降の出版の特徴を次の4点にまとめることができる。

① 被爆50年には、小田実(H: A Hiroshima Novel)、大江健三郎 (Hiroshima Notes)など著名な作家による本が再販された。蜂家道彦の日記形式の体験記録 Hiroshima Diary: The Journal of a Japanese Physician, August 6-September 30, 1945: Fifty Years Later (1995)や、小倉豊文の死んだ妻への手紙形式の体験記 Letters from the End of the World: A Firsthand Account of the Bombing of Hiroshima (1997)も大手出版社から、多くの部数で出されている。これらの本は原爆文献にはじめて出合う読者の層を広げる役割を果たした。
② 写真集や画集などは日英対訳の説明文を付けて刊行することがこの時期までにはあたりまえになっている。海外に出かける人々がこうした写真集を持参して被爆の実相を紹介するというケースも少なくない。長崎原爆資料館の展示を中心にした被爆の写真集『ながさき原爆の記録: Records of the Nagasaki Atomic Bombing』は被爆50年に企画され、翌年に出版された。広島平和記念館所蔵の被爆資料展示物を収録した写真集『図録ヒロシマを世界に:The Spirit of Hiroshima: An Introduction to the Atomic Bomb Tragedy』は1999年に出版された。日英対訳の初の公式記録である。
③ 被爆直後の救援活動、後障害の治療、海外在住被爆者の治療、放射線被曝者治療への情報提供など、医師たちの50年間にわたる活動も多くの報告書にまとめられた。核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会編『原爆災害調査の記録-医師たちのヒロシマ』1991年の英語版Doctors’ Testimonies of “Hiroshima”: A Report of the Medical Investigation into the Victims of the Atomic Bombing (1995)。1945年9月に広島入りした医師たちの論文集 Hiroshima Atomic Bomb, August 1945 and Super-hydrogen Bomb Test at Bikini Atoll in the Mid-Pacific, March 1954: Investigation by Scientists of Kyoto University (1995)。長崎・ヒバクシャ医療国際協力会企画による長崎シンポジウムの議事録Nagasaki Symposium Radiation and Human Health: Proposal from Nagasaki (1996)。 放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE)編集による『原爆放射線の人体影響』(1992)の英語版 Effects of A-Bomb Radiation on the Human Body (1995)。カザフスタンの医師との共同シンポジウム報告書Effects of Low-Level Radiation for Residents near Semipalatinsk Nuclear Test Site: Proceedings of the Second Hiroshima International Symposium, Hiroshima, July 23-25 (1996)などである。広島大学名誉教授(病理学専攻)横路謙次郎は、草野信男編 Atomic Bomb Injuries (1995)に掲載したエッセー「原爆とIPPNW」の中で、戦後、医学や生物学は飛躍的な進歩をしたにもかかわらず、放射線障害の治療に関しては決定的な方法はまだ見出されていないとし、核戦争の予防をすることが唯一の解決手段であると述べている。この言葉に、原爆投下直後の救急治療から58年間、被爆者医療にかかわってきた医師らの意見が集約されているのではないだろうか。
④ 高齢化した被爆者は、元気でいるうちに自らの体験を海外に知らせたいと願った。その願いに多くの翻訳ボランティアが応え、英訳作業を助けた。著者たちは、「元気でいるうちに記録を残したい」(The Dome in August/ 1997; Living through the 20th Century/ 2000)、「世界中の人たちに被爆体験を伝えたい」(Testimonies from Hiroshima, Nagasaki/ 1995; Hand them down to the next generations! / 1995; Peace Ribbon Hiroshima: The Witness of A-bomb Survivors – Toward Tomorrow/ 1997)という出版動機を持っている。体験記の中で、「人類が同じ過ちを起こさないために核廃絶を訴える。それが生き残った者の務めである」(Testimonies from Hiroshima, Nagasaki/ 1995; Pika-don/ 1995; The Song of Tokoroten/ 1998; Hiroshima Witness for Peace: Testimony of A-bomb Survivor Suzuko Numata/ 1998)と主張する。また、「核兵器がこの世に存在する限り世界への訴えを止めない」(Footsteps of Nagasaki: Excerpt from “Anohi Anotoki”/ 1997; Burnt Yet Undaunted/ 2002.)覚悟である。

   英語だけでなく、多言語での刊行を試みる傾向も出てきた。海外でもよく知られているジョン・ハーシーの『ヒロシマ』や、エレノア・コアの『サダコ』などは多くの言語に訳されていることが既に知られている。平和運動のひとつの方法としてボランティアの力により、日本人原著の本が多言語で刊行された例は、それほど多くはない。過去に出版された本で一例をあげると、児童向けの絵本、PIKA: Kei & Takkun’s Nuclear Trip (1987)がある。英語以外に十数言語で自費出版している。英語、ロシア語、フランス語、中国語は核保有国の子どもたちに、ヒンドウー語、シンハリ語、タイ語、スワヒリ語はアジア・アフリカの子どもたちに、ポーランド語は被爆の実相を知る機会の狭められている国の人たちに、エスペラント語は広く世界に訴えるために出版された。その他、スペイン語版、ドイツ語版もある。もう一つの例は、体験記集The Unforgettable Day (1992)である。35編の体験記と被爆者の現状を説明するリポートで構成されている。この本は、これまでに英語、ロシア語、エスペラント語で翻訳出版され、リトアニア語にも現地で翻訳出版された。それぞれ1000部を印刷し、英語版は2回再版している。
   また、一冊の本が複数の言語で構成されている例もある。Nagasaki Peace Trail(1995)は、日本語、英語、中国語、韓国(朝鮮)語の4言語で出来ている。これは翻訳ボランティアによる長崎のガイドブックであるが、九州に位置する長崎は、中国や韓国に近く、毎年これらの国から旅行者を迎える。前書きの文中に「近隣アジアの皆さんとの交流を大切にしたい」という記述がある。また、朝鮮人被爆者の記録To the People of the World (1994)は韓国(朝鮮)語、中国語、英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ロシア語、日本語の8言語で出来ている。1981年に製作された朝鮮人被爆者のドキュメンタリー映画のシナリオである。
   これらの多言語による原爆文献は、英語圏以外のもっと多くの世界中の人々に被爆の実相を伝えたいという共通の出版動機がある。世界で使用されている言語のうち、使用人数の多い順では、中国語(10億2500万人)、英語(4億9700万人)、ヒンドウー語(4億7600万人)、スペイン語(4億900万人)である。23) 2003年現在、日本人原著で、英訳出版された原爆文献の数に比べると、そのほかの言語で読める文献はまだ少ない。多言語で原爆文献の出版をした人たちの願いを大きな動きにするのは、今後の課題として残されている。

結論

   23年前 (1980年)のバーバラ・レイノルズの要望に私達はどれだけ応える事が出来ただろうか。年度別の出版件数のグラフから、広島と長崎の世界化の進展を見ることができる。被爆50年以降も英文による文献件数の努力が続いている。2005年の被爆60年まで後2年。この年までに何冊の原爆文献が英語で紹介されるのだろうか。第5期と同じ、または第5期をしのぐ件数になるかもしれない。
   これからの課題は、これまでに出版された本を海外の民衆にどう届けるか、である。せっかく出版した英語の本が執筆者の家に、または出版者の元に在庫のまま、行き場がない状態になっていることを伝え聞くことがある。1978年に展開された、英文写真集 HIROSHIMA-NAGASAKIを海外に送る運動が今後の方向性を模索するヒントになるのではないだろうか。市民運動として、被爆の実相を伝える本を海外に届ける運動が起こってほしい。インド・パキスタン青少年と平和交流をすすめる会は2000年2月にインドとパキスタンに原爆の本を持参し、学校や研究所に寄贈した。被爆の実相を伝える写真集などは幅広い層の人たちに受け入れられたと帰国後報告している。過去58年間、英語で読める広島・長崎原爆文献は海外の知識層にヒロシマ・ナガサキを知らせた。今後の課題はヒロシマ・ナガサキがどれだけ草の根に浸透するかである。英語だけでなく多言語による原爆文献の出版を次の世代が引き継いでほしいと願っている。

  1. バーバラ・レイノルズは広島市の名誉市民。広島のワールドフレンドシップセンター、米国オハイオ州ウイルミントン大学平和資料センターの創立者である。クエーカー教徒、平和活動家として被爆者支援をライフワークとした。詳細は以下の本を参照のこと。To Russia-with Love (1962) (レイノルズ一家は1961年に旧ソ連の核実験再開に抗議してヨットでナホトカに向かった。この本は娘ジェシカによる航海記である。この航海に先立って、1954年には太平洋での米国による核実験に抗議し、ヨットで実験海域に入っている。) Good-bye to Hiroshima (1969) (バーバラ・レイノルズの帰国を機に刊行された。) The Phoenix and the Dove (1986) (バーバラ・レイノルズによる随筆)。 City of Silence: listening to Hiroshima (1995)(筆者ラッシェル・リナーは1984年12月から1990年にバーバラ・レイノルズが死去するまで続けた文通や、インタビューのテープを基にレイノルズの後半生を描いている。米国に帰国した後のレイノルズの平和活動や生活ぶりを知る唯一の英語で読める本である)。 Moments of Peace: two honorary Hiroshimans: Barbara Reynolds and Norman Cousins (1998)(医師で平和活動家であった原田東岷によるレイノルズの回想記。バーバラ・レイノルズの随筆 “The Phoenix and the Dove”も収録している)。
  2. 宇吹暁(1999)は、日本語で書かれた原爆手記は、書誌数の54%、手記集の79%が流通ルートを通らない出版であると指摘している。
  3. 宇吹暁(1999)は、被爆50年以降は原爆手記の出版数は激減すると予想されたが、予想に反し、その後も営々と続いていることを報告している。日本人原著の英文で読める原爆文献も同様な傾向にある事がこのグラフでわかる。
  4. ジョン・ハーシーのヒロシマルポ “The Reporter at Large Hiroshima”が米国ニューヨーカー誌1945年8月31日「ヒロシマ」特集号に掲載。ノーマン・カズンズは「4年後の広島」と題して、1949年8月の広島訪問ルポをサタデーレビュー誌9月17日号に寄稿している(広島市役所編『新修広島市史-資料編その二』(1960)所収)。建造物、人的被害については米国マンハッタン計画の帰結として、1946年に詳しい報告書The Atomic Bombings of Hiroshima and Nagasakiが米国政府機関によって出版されている。    広島と長崎に投下された原爆を初めて文学として表現したのは、おそらく英国詩人イーデス・シットウエルである。1945年9月10日に、広島と長崎への原爆投下を報じたタイムズの記事を読んだのがきっかけで “Three Poems of the Atomic Bomb(原子力時代の三部作)” を作詩したと言われる。
  5. 『あさ3号』(1966年)特集「ひろしまの母の戦後体験」より。広島の母親グループは1963年にメンバーの一人が原爆症で死亡したことから、体験記集を翌年に創刊。1982年の17号まで毎年文集を発行した。
  6. 筆者の父、松本卓夫は当時広島女学院院長で、1964年の広島・長崎世界平和巡礼団の団長。家族3人が爆心地から1.5㌔の地点で被爆した。
  7. Kusano (1995): 5
    8, 深川宗俊『1950年8月6日-朝鮮戦争下の広島-』原水爆禁止広島市協議会 1970年、64㌻。今堀誠二『原水爆時代‐現代史の証言-』(下)三一書房 1960年、51㌻。
  8. マグロ漁船第五福竜丸は、1954年、ビキニ環礁で実施された米国による水爆実験場から160㌔地点で、“死の灰”を浴びた。英文文献はThe Voyage of the Lucky Dragon (1957)。日本語版『福竜丸』は1958年みすず書房から発刊。医師による文献資料はHealth Effects of Atomic Radiation: Hiroshima-Nagasaki, Lucky Dragon, Techa River, and Chernobyl: proceedings of Japan-USSR Seminar on Radiation Effects Research, June 25-29 (1990)
  9. 『ヒロシマの記録-年表・資料篇』(1966)98㌻。
  10. 中国新聞1961年2月1日。長崎の被爆者、山口仙二は海外派遣団に加わった体験を自著で述べている。Burnt Yet Undaunted: Verbatim Account of Senji Yamaguchi (2002)( 山口仙二聞き書き「灼かれてもなお」日本被団協 2002年)
  11. 同上書、161㌻。
  12. Friends of the Hibakusha (1964) は平和巡礼が米国を訪れた時の米国市民の反応を報告している。
  13. 原田東岷は自著(Harada 1998, p.51)の中で、1963年にバーバラ・レイノルズが、過度なクリスマス商戦への抗議の断食をした際に「私もまたヒバクシャです」と言うのを聞いたと述べている。
  14. 前掲『灼かれてもなお』165㌻。
  15. 宇吹暁「日本における原水爆禁止運動の出発-1954年の署名運動を中心に-」『広島平和科学』 202㌻。
  16. Hiroshima-Nagasaki Publishing Committee (1978)
  17. 中国新聞社編『ヒロシマの記録-年表・資料篇』未来社1966年 200㌻。      大牟田稔「沖縄の被爆者たち」山代巴編『この世界の片隅で』岩波書店 1965年。186㌻
    19. 中国新聞社編『証言は消えない-広島の記録1』未来社1966年 266㌻。「被爆者実態派遣団」は在日韓国居留民団(現・在日本大韓民国民団)広島県本部が韓国に派遣した。日本在住韓国人の現状を韓国政府に訴え、同時に韓国在住被爆者の実態を調べて帰国した団体の名称である。
  18. 被爆者援護法は医療費や各種手当ての支給を日本国内の被爆者に限って適用されるので在外被爆者は同様の支給は受けられないことが原則とされる。韓国やブラジルの在外被爆者は集団訴訟で日本国内の被爆者と同等の補償を要求してきた。高齢化した在外被爆者のため、現地での手続きや治療を求めている。
  19. Linner (1995)は、非日本語母語話者のためにhibakushaの用語を分かりやすく説明している。この単語は3つの音節でできており、直訳は「爆発の影響を受けた人たち」で、原爆による死亡者と原爆の被害にあった生存者の両方を意味すると解説している。Nasu (1998) はhibakushaは広島と長崎の被爆者だけでなく、核実験や原子力発電所の事故で放射線を浴びた人たちも言う、と定義している(69㌻)。被爆者と被曝者が同音異義語であることから、両者の連帯を求める動きに関して、片仮名の「ヒバクシャ」がよく新聞紙上で使われるようになった。
  20. 宇吹(1999)は、1946年から1995年までに出版された原爆手記(日本語)の総数、37,793件のうち、1995年の出版数は5,496件で、年別推移では抜きん出ていると述べている(392㌻)。
  21. 『世界のデータブック-1999年』第2巻 二宮書店

参考文献

『年表 ヒロシマ』中国新聞社 1995年
宇吹 暁『原爆手記掲載図書・雑誌総目録 1945―1995』日外アソシエーツ 1999年
宇吹 暁「日本における原水爆禁止運動の出発-1954年の署名運動を中心に」『広島平和科学』 5 (‘82) p.199-223.
被爆50周年写真集『ヒロシマの記録』中国新聞社 1995年
中国新聞社編『ヒロシマの記録 年表資料編』未来社 1966年
『和英ヒロシマ事典HIROSHIMA HANDBOOK』平和のためのヒロシマ通訳者グループ編発行 1995年
中村朋子「英語版ヒロシマ・ナガサキ文献案内」『新英語教育』7月号 三友社 1983年
中村朋子「Annotated Bibliography」『The Legacy of Hiroshima』佼成出版社 1986年
中村朋子「英語で読める原爆文献案内」『和英ヒロシマ事典HIROSHIMA HANDBOOK』平和のためのヒロシマ通訳者グループ編発行 1995年
深川宗俊『1950年8月6日-朝鮮戦争下の広島-』原水爆禁止広島市協議会 1970年
今堀誠二『原水爆時代-現代史の証言-』(下) 三一書房 1960年
山代巴編『この世界の片隅で』岩波書店 1965年
Hiroshima-Nagasaki Publishing Committee. Hiroshima-Nagasaki: A Pictorial Record of the Atomic Destruction. Tokyo: Hiroshima-Nagasaki Publishing Committee, 1978.
Kusano, Nobuo. Atomic Injuries. Tokyo: Tsukiji Shokan Company, 1995.
Linner, Rachelle. City of Silence: Listening to Hiroshima. N.Y.: Orbis Book, 1995.
Nakamura, Tomoko. “The Legacy of Hiroshima and Nagasaki: A-bomb literature available in English” PRIME 12 (2000): 83-95
Nasu, Masamoto. Hiroshima: A Tragedy Never to be Repeated. Tokyo: Fukuinkan Shoten, 1998.

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